今に生きる菅江真澄こと、秋田のとんじい、よもやま徘徊日記 公園と森の散歩、秋田の祭り、行事、踊り

西音内盆踊りご案内

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踊り継ぐ七百年の歴史 西音内盆踊り

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母から子へ、又その子へと受け継がれてきたという
昔を物語る端縫いの衣装を身にまとい
なり響くお囃子の音色を聞きながら
女たちはどのような思いを胸に
夏の世を舞うのだろう

音頭の歌詞  一例

  • 時勢はどうでも 世間はなんでも 踊りこ踊たんせ
    日本開闢 天の岩戸も 踊りで世があけた
  • 踊りの上手も 見目のよいのも 土地柄血すじ柄
    なんでもかんでも 嫁こ欲しがら ここから貰たんせ
  • 踊るて跳ねるて 若いうちだよ おらよに年いけば
    なんぼ上手に 踊てみせだて 誰も見る人ねえ
  • おら家のお多福ぁ めったにないこと びんとで髪結った
    お寺さゆくどて そばやさひかかて みんなに笑われた
  • 豊作だ万作だ これぁ又良い秋だ
    面白まぎれに 一つ踊たば 嬶腹万作だ
  • 西音内女ごは どこさえたたて 目にたつはずだんす
    手つきみてたんせ 足つきみてたんせ 腰つきみてたんせ
  • 名物踊りは 数あるなかでも 西音内ぁ 一番だ
    嫁こも踊るし 姑も踊る 息子はなお踊る
  • 隣の娘さ 踊りこ教えたば ふんどし礼にもらた
    さっそく持て来て 嬶どさ見せたば 横面殴られた
  • いっぱい機嫌で 踊りこ踊たば みんなにほめられた
    いいきになりゃがて 頬かむりとたれば 息子にどやされた

がんけ(甚句)の歌詞  一例

  • お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 なお恋し
  • 月は更け行く 踊りは冴える 雲井はるかに 雁の声
  • 踊る姿にゃ 一目でほれた 彦三頭巾で 顔しらぬ
  • 今宵一夜は 負けずに踊れ オジャレ篝火 消ゆるまで
  • 今宵一夜は 力の限り 踊れ東の しらむまで
  • 踊れ踊れよ 世が明けるまで 響く太鼓に 月がさす
  • がんけ踊って 知らねでいたば 夜明け烏が 阿呆というた
  • 踊って見たさに 盆踊り習った ヤット覚えたば 盆が過ぎた
  • 踊り踊らば 三十が盛り 三十過ぎればその子が踊る
  • 押せや押せ押せ 下関までも 押せば港が 近くなる
  • お前百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の生えるまで

お囃子

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楽器は、笛、大太鼓、小太鼓、三味線、鼓、鉦です。

鳴り物六種のほか、地口、または甚句の歌い手が加わり、世間世事をを風刺したもの、野趣叙情味あふれるもの、農民特有の素朴なエリチシズムをにおわせるものなど、じつにさまざまな歌詞で踊りを盛り上げます。

囃し方は、会場のほぼ中央の特設やぐらで、左右の柱には「五穀豊穣」「豊年万作」と書いた角の長灯篭、腰には幔幕を張って、ひなびた中にも華やかな情緒を漂わせ、夜半まで演奏されます。

端縫い衣装 (はぬいいしょう)

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西音内盆踊りといえば、端縫い衣装と言うくらい有名ですが、女性の踊り手が多く用いるのがこの「端縫い衣装」です。

端縫い衣装は数種の絹布を縫い合わせたもので、帯も渋好みのものが多く、結び方は御殿女中風になります。

大勢の見物人の目に触れる踊り衣装に、婦人たちが強い関心と工夫を凝らし、図柄と配色に苦心したことでありましょう。

小布や半端な生地でも捨てず、思い思いの衣装を作り上げ、祖母から母へ、又その子へと受け継がれたものであります。
そしてその衣装を着て踊ることは、女たちの故郷に生きる思いを表現することでもあります。

踊りについて

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踊りには、音頭とがんけがあり、がんけには、現世の悲運を悼み、来世の幸運を願う「願生化生の踊り」(がんしょうけしょうのおどり)との説があります。
がんけの歌詞、節まわしには、哀調が漂い、本来娯楽の踊りではなく、今は亡き者を偲ぶものではなかっただろうかと思われます。

踊りの起源

西音内盆踊りの起源については、記録されたものがないため、すべて言い伝えによるものです。

正応年間(1288~1293)に源親という修行僧が、蔵王権現(現在の西音内御嶽神社)を勧請(かんじょう)し、ここの境内(けいだい)で豊年祈願として踊らせたという説があります。

これが慶長六年(1601)西音内城主小野寺茂道一族が滅び、土着した遺臣たちが主君を偲び、旧盆の16日から20日まで、宝泉寺(西音内寺町)で行われた亡者踊りと合流しました。
そして天明年間(1781~1789)に現在の本町通りに移り、現在まで継承されてきたと伝えられています。
西音内町発行資料より

勧請とは

分霊(ぶんれい、わけみたま)とは、神道の用語で、本社の祭神を他所でも祀る際、その神の神霊を分かちたもののことである。分霊を他の神社に移して鎮祭することを勧請(かんじょう)という。分祀(ぶんし)ともいう.


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