今に生きる菅江真澄こと、秋田のとんじい、よもやま徘徊日記 公園と森の散歩、秋田の祭り、行事、踊り

千秋公園ごあんない

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日本の公園100選

千秋公園」は歴史有る佐竹氏が居城としていた久保田城の城跡で、緑豊かで、身近な公園として、多くの人々に親しまれ、私たち秋田市民の誇りとしてきました。

市制100周年の記念すべき年に日本を代表する公園として、「日本の都市公園100選」に選ばれました。

最初の城跡公園

千秋(せんしゅう)公園は、秋田藩主佐竹氏が十二代、約270年にわたって居城とした久保田城跡を、明治期の造園家、永岡安平の設計によって整備した近代公園である。

公園整備は本丸御殿のお池や、城内の土塁、通路などの遺構を生かして行われ、明治30年(1890)に近代的な城跡公園として千秋公園が完成した。

永岡はその後も城跡公園の設計を多数行ったことから、近代公園の先駆者と呼ばれている。

本丸の配置

久保田城が築かれた神明山、三つの高地からなる標高約40メートル程の起伏のある台地で、別名三森山と呼ばれていた。
築城は慶長8年(1603)五月から着工され、翌九年八月に完成した。

本丸はもっとも高いところを削平、土盛りし、平らにして作られた。東西65間(約117メートル)、南北120間(約215メートル)のほぼ長方形をなし、周囲には高さ4~6間半(約7.3メートル~11.8メートル)の土塁を構築している。

本丸の建造物は、表門からはいった正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部分には藩主の住居である、本丸御殿があった。

また土塁の上を多聞長屋(たもんながや)と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西の隅には兵器庫を兼ねたお隅櫓を設けた。

西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御だし書院」が作られた。

佐竹氏

佐竹氏はもと,常陸(現在の茨城県)地方の領主であったが、慶長5年(1600)の関が原の戦いにおいて家中の意見がまとまらず、中立的な態度をとったため、徳川家康によって、出羽の国、久保田(後の秋田市)に減封の上国替えを命ぜられる。

こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である、常陸を去ることとなった。

佐竹家19代の佐竹義宣(よしのぶ)は久保田藩(秋田藩)の初代当主となり、久保田城の築城を完成させた。

義宣は築城技術に長じており、彼の築城した久保田城は隠れた名城と言われる。
このことは後の戊辰戦争で証明されることになる。

戊辰戦争と久保田藩

時は過ぎ、戊辰戦争の始めにおいて、久保田藩は列藩同盟(幕府支持派)の一員であったが、秋田出身の尊王攘夷思想家の平田篤胤の影響で、藩内の意見は不安定であった。

そこに新政府の大山綱良、桂太郎らの巧みな謀略によって、藩内の尊王攘夷派が勢いづき、なし崩し的に列藩同盟を離脱し、新政府側につくことになった。

このようにして久保田藩は東北地方における新政府軍の拠点となった。久保田藩に倣って、新庄藩、本荘藩、矢島藩、亀田藩も新政府側に付いた。

列藩同盟の庄内藩は数に劣っていたが、豪商本間家からの多額の献金により最新式銃を装備していた。

また指揮、戦術も優れていたので、連戦連勝し久保田城の目前までせまったが、城の堅牢さに攻めあぐねているうち、列藩同盟の中核となった仙台藩、米沢藩が降伏したため退却し、会津藩の降伏後、開城し降伏した。


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