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佐竹氏の秋田入部

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佐竹氏 秋田入部400年

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江戸屋敷を巡って㊤ 佐竹氏探訪の会東京を行く 土居輝雄

土居輝雄

 今年は東京で、四国との関連もたどりつつ、佐竹江戸屋敷などを巡った。

 10目午前9時51分「こまち2号」東京着。一行26人は早速貸し切りバスで寛永寺に向かった。秋田市の天台宗・帰命寺のお世話で、見学の念願がかなえられたのだ。

 天台宗・寛永寺は佐竹三代藩主義處(よしすみ)が消防の責任者に任じられていた寺である。1682(天和2)年のいわゆる「お七火事」で神田上屋敷が焼けた後、幕府は佐竹の上屋敷を寛末寺直下の池之端に与えた。

 そして寛永寺消防の責任者に任じているのだ、佐竹にとっては因縁のある寺である。

 徳川家の菩提寺は浄土宗・増上寺であるが、3代将軍家光が天台僧天海の勧めで上野の山に寛永寺を創建し、以後4代家綱、5代綱吉が寛永寺に埋葬されるに及んで増上寺との間に菩提寺争いが生じた。結局、どっちにも偏らずに埋葬することとなった。ちなみに歴代将軍の埋葬場所は次の通りである。

 ▽日光東照宮 家康、家光▽寛末寺家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定▽増上寺 秀志、家宣、家継、家重、家産、家茂
 ▽谷中霊園  慶喜

 さて、寛永寺は戊辰の役の上野戦争でほとんどが灰燼に帰した上、明治に入って寺領を失い、現在はかつての10分の1といわ
れている。さらに第2次世界大戦で霊廟、本殿、拝殿、中門などを焼失したが、厳有院霊廟と常憲院霊廟の勅額門、水盤舎、宝塔、唐門は残った。

 私たちは親切な案内で徳川慶喜謹慎の間である葵の間を見学し、徳川将軍家霊廟の常憲院霊廟(綱吉、吉宗、家定夫妻)を参拝。その足で、紅葉が見えだしてきた谷中霊園に赴き徳川慶喜の墓所を詣でた。

 その後、アサヒビール吾妻橋ビルに向かった。この土地は1860(万延元)年、越前福井藩松平氏から佐竹家に移り、佐竹の庭園・浩養園として有名となった。1990(明治23)年からは一般公開もされ、東京市中の憩いの場ともなっていたが、1900(同33)年にビール会社に所有が移った。

 平成に入って隅田区役所、アサヒビール本社、住宅都市整備公回などの建物がが建ち現在に至っている。

 同ビル21階のレストランで昼食を取った。眺望は素晴らしく、浅草寺をはじめとして台東区全景が見下ろされた。自立式の電波塔としては世界最高となる建設中の東京スカイツリーが間近に見えた。

石灯篭火袋

 一行は昼食後、浩養園跡に立って佐竹向島中屋敷をしのんでから、同社配送センターで保管されている庭の石灯寵を見学させてもらった。

 つい先年まで高さ6㍍ほどの完全な形であったが、その後解体され、今では火袋の部分しか残っていない。それでも数多くの佐竹江戸屋敷の唯一の遺物であり、倉庫に眠らせておかないで何とか秋田で展示できないものだろうかと思った。

 墨田区立本所中学校に立ち寄って、校内にある明徳資料館を見学した。資料館は、1875(明治8)年、本所瓦町に住んいた佐竹義脩(よしなか)(義亮養子)をはじめ、在住の旧藩主たちが協力し、付近の本久寺にあった教育所を移転して本所表町の旧平戸藩下屋敷跡地に小学校として建築した。

 この時、多額の資金を寄付した義脩に学校の命名が依頼され、彼は秋田藩の藩校「明徳館」にちなんで「明徳」小学校と名付けたのである。県外で「明徳」と聞くと妙に懐かしかった。

明徳小学校跡

 本所中学校長、副校長と明徳小学校友会のみなさんから心温まる歓迎を受けた。

 見学終わってバスはこの日最後の訪問地、佐竹商店街に向かった。1回目の探訪の際も訪れた所である。ここにあった屋敷は通称「三味線堀屋敷」で、江戸名所の一つであった。慶長から中屋敷となり、1698(元禄11年から1869(明治2)年までは上屋敷だった。商店会理事長がわざわざお会いしてくれた。

 タ食は屋形船で取った。墨田川から跳める東京の夜景は日本一と言いたい。

江戸屋敷を巡って㊦ 佐竹氏探訪の会東京を行く 土居輝雄

 11日の早朝6時に柳橋のホテルを出て浅草橋界隈を散策した。鳥越下屋敷跡(慶長~明治)、向柳原中屋敷跡(延宝~文化3)、佐久間町中屋敷跡(文化3~天保14)などを巡る1時間半の行程だった。両国橋上では初冬の東京湾に向かってイギリス民謡「灯台守」を合唱した。

 2日目の最初の訪問先は亀戸中屋敷跡である。その所在地は現在の江東区亀戸1、2丁目に当たる。屋敷の南北は屋敷西方の横十間川に懸かる綿糸橋から松代橋の間、屋敷の東西はJR総武線亀戸駅西端から横十間川までの間の西半分だと思えばほぼ当たる。

 この屋敷があったのは、1843(天保14)年から1860(万延元年までの17年間だった。

 それからバスは下谷の正洞院へ向かった。正洞院とは、佐竹義宮別室の法名「正洞院殿明室珠光大姉」に由来する。その兄の那須資晴は、豊臣秀吉の小田原包囲の際、佐竹義宣の勧誘を断って北条方に付き、ついに秀吉のもとへ出陣しなかった罪で改易となった。

 彼女は実家と婚家の板挟みとなり、自害に追い込まれる。 やがて関ケ原の戦いが起こり、西軍に味方した義宣は不安の日々を送った。彼は前室の無惨な死に対する悔恨が募るばかりで、ついに前室供養のため一寺を創建した。

 これが正洞院である。佐竹家では正洞院殿の回忌を忘れていない。確か二百回忌の記録もある。これは藩祖義宣の遺言であろう。

 江戸下谷の正洞院は古絵図でも現在地あたりである。大火、関東大震災、区画整理、道路拡幅などで多少の移動はあったろうが、ほぼ現在地で聞違いないであろう。ただし、寺域はもっと広かった。

 ここも2度目の訪問だが、90歳を超す先々代住職夫人と現在の住職がニコニコと私たちを迎えてくれた。一行は正洞院殿のお墓に供花し合掌してから寺を後にした。バスは首都高速を経由して日蓮宗・池上本門寺に到着。


育姫墓地

 紀伊家は天台宗である。なぜ日蓮宗の寺に紀伊家の墓があるのか。それは2代藩主光貞夫人安宮の願いということだが、光貞の養母の願いが強く影響している。つまり紀伊家初代頼宣の正室(加藤清正の女)のことである。

 清正は熱烈な日蓮宗徒であった。彼女が紀伊家に嫁しても、その信仰の深さが夫頼宣、子光貞、光貞夫人にまで影響を与えたのだ。

 驚いた。こんな豪壮な墓石がこれまで佐竹一族にあっただろうか。私たちは育姫の墓に供花し秋田県民歌を合唱しねんごろに弔った。

 バスは再び首都高速を走り、佐竹池之端上屋敷跡に到着した。現・文京区湯島3丁目で1685(貞享2)年から1698(元禄11年までの13年間の上屋敷である。つまり神田上屋敷の焼けたお七火事から池之端上屋敷の焼けた勅額の火事までの間と覚えておくとい

 昼食は上屋敷跡近くの店で取った。不忍池と上野の山の全景が見渡せた。佐竹上屋敷の奥座敷からは、素晴らしい借景だったろう。


 一行は松山藩菩提寺・済海寺を訪ねた。松山藩6代藩主・松平定喬の正室は秋田藩5代藩主・佐竹義峯長女の照姫である。
済海寺には、照姫の墓があるのだ。私たちは墓前に供花し、秋田生まれ、秋田育ちの彼女に秋田県民歌を手向けた。

松山藩庭園

 その後、一行はイタリア大使館へ向かった。そこは松山藩松平家の中屋敷跡なのである。照姫はこの中屋敷で67歳の生涯を終えている。この大使館の庭園は、松山藩中屋敷当時の庭がほぼそのまま残されているという。なるほど聞きしに勝るものだった。

 今回の旅行の最後は、秋田ゆかりの新庄藩戸沢家菩提寺の営林寺に立ち寄って詣でた。
  (歴史作家、佐竹史探訪の会講師)土居輝雄

秋田魁新聞記事21・8・4 北斗星

秋田魁新聞記事 北斗星 佐竹氏秋田入部400年

昨日早朝一台のバスが早朝常陸太田市を出発した。「ふる里の祖歴を学ぶ会」を中心とした市民ら50人。
それぞれ400年以上前の出来事を胸に秘めながら秋田市に向けて北上した。

祖歴とは祖先の歴史、つまりはルーツのことである。常陸太田市は、佐竹氏が1602(慶長7)年に
秋田へ国替えとなるまで約470年間も治めた土地。ところが国替えによって、地元には佐竹氏に関する資料はほとんど残っていないのが実情だ。

学ぶ会のメンバーは、佐竹氏の旧家臣を先祖に持つ人たちである。国替えとともに主に長男が秋田へ行った。家族の別離と一族の分離。それこそ涙の別れをしたに違いない。

「何とか血筋を探したい」との思いは、人間として自然の発露だろう。地元では今でもこんな話がささやかれる。
「金と美人とハタハタは佐竹さんと一緒に秋田へ行った」。

これ一つ取っても、残された人たちの情がよく分かる。会長の野内二三雄さん(72)が言う。
「秋田には先祖がいる。私たちにとって秋田は古里なんです」32年前に姉妹都市となった両市。

さまざまな交流が続くが、学ぶ会と県内の文化団体との民間交流は濃密だ。ルーツ探しのため何度も秋田を訪れるうちに、まるで親せきのような深い関係に。昨夜も交流会を間いて、肩を抱き合った。

きのうは秋田竿燈まつりが開幕した。大勢の観光客に交じって、秋田の夏を存分に楽しんだ常陸太田の人たち。夜空に浮かぶ稲穂の列に何を思ったろうか。

秋田魁新聞記事 常陸太田市の交流団佐竹氏ゆかりの地を見学

  • 佐竹氏ゆかりの公園などを見学
    秋田、仙北両市と連携交流提携している茨城県常陸太田市の交流団が本県を訪れ、6日、秋田市の千秋公園などを見学した。

3市ゆかりの公園を、久保田城址歴史案内ボランティアの会の案内で歩いた。

right,常陸太田市からの交流団

交流は秋田藩主の佐竹氏が常陸出身である縁で行われており、常陸太田市からし職員を含む35人が来県。同公園では6組に分かれてボランティアとともに園内を巡った。

茨城県産のけやきで作られた久保田城表門の柱や、佐竹義宣公に仕えたきつねを祭った与次郎稲荷神社などを興味深げに見て回った。

5日夜の秋田竿灯祭りも見学した久保木信義さん(64)は迫力ある竿灯も、美しい千秋公園もすばらしい。何より秋田の皆さんが温かく迎えてくれたことがうれしい。

ボランティアの成田松子(61)さんは「常陸太田市には縁を感じており、楽しく交流できて良かった。今度はこちらから常陸太田市に行って見たい」と話した。

交流団は4日に来県。秋田市に先立ち仙北市を訪ね、角館の武家屋敷などを見学した。

関が原の戦いと佐竹氏

慶長三年(1598)、天下人の豊臣秀吉が死去し。これによって徳川家康の勢力が拡大する。

この状態を打破しようとして、豊臣家家臣の石田光成らは、慶長五年九月挙兵し、東西両軍は今の岐阜県関が原で激突する。

この天下分け目の戦いでは家康が勝利を収めたが、佐竹義宣は石田光成との親交もあり、また家中の意見がまとまらないためもあって、どっちとらずの曖昧な態度をとったため、家康の怒りを買うことになった。

佐竹氏は慶長七年、突如出羽の国への国替えを命ぜられた。
これは明らかに関が原の戦いのにかかわる処罰としての国替えであった。

これにより常陸五十六万石より秋田20万石へ減石となった。
しかし秋田二十万石は表向きで、実際は四十万石以上あったといわれている。

幕府の役人が石高調べに秋田へ来た際、土崎港より望む男鹿半島を見て、あれはいずこの国ぞと問われ、佐竹家臣の気の利いたものが、あれは蝦夷地でござると返答し、男鹿以北の石高を免れたという言い伝えを、聞いたことがあります。(管理人の記憶による)

佐竹氏の新領地は、現在の秋田県地域のうち、鹿角と由利 を除いた部分であり、同地域を支配していた、小野寺氏は改易(取り潰し)、秋田氏、戸沢氏、六郷氏、本道氏は常陸へ国替えとなった。

新領主の所領配置

佐竹義宣 常陸より入封

  • 「十二所」塩谷義綱  1676梅津五郎右衛門
  • 「大館」 朝坂朝光  1608年佐竹西家 義成
  • 「檜山」 木場義成  1608年多賀谷宣家
  • 「角館」 芦名義勝  1659年佐竹北家 義隣
  • 「横手」 伊達盛重  1624年須田盛秀一 1672年戸田義連
  • 「湯沢」 佐竹南家  義種
  • 「院内」 矢田野義正一  1680年大山義武

最上義光領改易(取り潰し)1622年

  • 1623年 岩城吉隆 信濃国より入封(亀田藩2万石)
  • 1623年 六郷正乗 常陸国より入封(本荘藩2万石)
  • 1623年 打越光隆入封(3千石)
  • 1623年 仁賀保拳誠入封(一万石)
  • 1640年 生駒高俊 讃岐国より入封(矢島藩一万石)
  • 1640年 酒井氏(庄内)預かり領(1857石)

久保田築城

秋田へ入部した佐竹義宣は、秋田氏の居城であった湊城に入るが、すぐに土崎湊より8kmほど内陸に入った久保田神明山に新しく築城し、翌慶長9年8月には久保田城に入った。

湊は雄物川の水運を利用し、日本海海運を活用して全国市場につなげる城下の外港として位置づけたものである。
この構想は常陸時代の水戸と那珂湊を連絡した城下町建設の構想をそのまま持ち込んだものであろう。

寺町の形成

久保田城下町の西側を覆う外壁のように寺院が建てられているのが寺町である。
常陸からの移転寺院は、宝鏡院、安楽院は城内に

菩提寺天徳寺、義宣夫人を供養するための正洞院
など佐竹家と関係の深い寺院は、城内や手形あるいは金照寺山に建てられ、

寺町には鱗勝院。龍泉寺、一乗院、東清寺が建立された。

梅津政景(うめずまさかげ)日記

初代藩主佐竹義宣によって抜擢され、院内銀山奉行、勘定奉行、家老職など大役をこなし、秋田藩政確立に大きな功績を残した梅津政景の日記である。

公務の記事が多く、秋田藩政の政情を知る上で貴重な資料である。

参考資料 秋田佐竹資料館 など

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