今に生きる菅江真澄こと、秋田のとんじい、よもやま徘徊日記 公園と森の散歩、秋田の祭り、行事、踊り

佐竹家ゆかりの徳島藩主

TOP>祭りメニュー>21年角館の祭り>佐竹氏の秋田入部>here

Add to Google

文字サイズ:

佐竹氏ゆかりの徳島藩主 蜂須賀重喜の墓復元

#ref(): File not found: "swfu/d/IMG_0004_NEW.jpg"

徳島市教育委員会から佐竹史探訪の会に、徳島藩10代藩主峰須賀重喜の墓の復元完了という知らせが届いた。昨年11月の私たちの訪問に対するご好意と思われる。

送られてきたパンフレット「徳島市文化財だより」の中に「史跡徳島藩主蜂須賀家墓所の保存修理」という一文があった。概略は次のような内容である。

「佐古山町諏前山にある峰須賀家万年山墓所のうち万年山に儒葬墓を開いた重喜の墓の修復工事を行った。
すべての柱は、礎石内に鉛を流し込んで固定していたため、傾いた柱を直立させる作業に大きな労力を要した。

漆喰張りの床面は白色玉砂利を敷いてオリジナルの漆喰を保存し、封土は発掘調査の結果から直径2.3㍍高さ1㍍に復元。また門の形式は古い写真を参考に棟門とした。
      
 昨年訪ねた時はちょうど工事中で、急傾斜の山道の階段は撤去され、ブルドーザー専用の道となっていた。

私たちは随分難儀して墓まで登って行ったことを覚えている。もし雨天であったらとても登ることはできなかっただろう。
墓からさらに二十数分登ると高さ約3㍍幅8㍍の巨岩に万年山墓所について書いた重喜の碑文があった。

 完成した墓の写真が同封さていた。墓は奥行き12・5㍍幅10・5㍍の広さである。私は写真を見て、大分傷んでいたあの墓所が、こんなに立派なものになったのかと感激した。

  実は、蜂須賀重喜は秋田藩の佐竹家ゆかりの人物なのだ。昨年訪ねて行ったのも、郷里のだれ一人として参詣に来ない彼を供養し、佐竹史探訪のIページーにとどめておきたかったためでIある。           

  重喜は、佐竹壱岐家の義道4男として1738(元文3)年、江戸は浅草鳥越邸に生まれる。初名義居(よしすえ)。1754(宝暦4)年、蜂須賀至央(よしふさ)の養子となる。蜂須賀家を襲封した義居改め重喜は、藩政改革を決意、実行したが、結局は失敗に終わる。

1769(明和6)年、幕府は彼を免職、隠退居命じる。 
改革は失敗に終わったが、彼を上杉鷹山と比肩できる人物として高く評価しているものもいる。

鷹山が米沢の藩政改革に乗り出したのは重喜より10年も後だっ
た。鷹山は自らの改革に当たって、重喜の例を十分に参考にしたに違いない。

また、田沼意次からその政治感覚をこよなく愛された秋田藩8代藩主佐竹義敦も、重喜から受けた影響が大きい。

義敦の改革は病弱のせいもあり短命で青写真に終わったが、義敦なくして秋田藩中興の藩主と言われる義和の存在はあり得ない。

私たちの訪問は、徳島市側からも歓迎され、地元の四国放送は当日昼に数分間、夜のワイドショーには10分間も放映した。
     
 徳島新聞は「秋田の歴史講座受講生 蜂須賀重喜の万年山扉所訪問 佐竹家から養子で縁」という見出しで、11月14日付朝刊に次のような記事を掲載した。重喜墓前で県民歌を合唱している写真付きである。

#ref(): File not found: "swfu/d/hakasige.jpg"

「秋田藩主だった佐竹家の歴史を学ぶ秋田カルチャースクール(秋田市)の講座『佐竹史探訪の会』の受講生ら21入が13日、
佐竹家から養子として徳島藩に入った10代藩主・眠る徳島市佐古山町の国指定史跡『蜂須賀家万年山墓所』を訪れた。

一行は眉山の万年山遊歩道を登り、10分ほどで墓前に到善。菊の花と線香を供え、秋田県民歌を合唱した。

受講生の主婦高田ツヤ子さん(68)は『山全体がお墓になっているのには驚きました』と話していた。この日は、徳島市下助任町二の蜂須賀家の菩提寺・興源寺も訪問した。

受講生らは‥11日から3日間、愛媛・徳島両県の佐竹家ゆかりの地を巡った」 今回の徳島と秋田の交流は、佐竹史を飾る新たなIページとなったと思う。
秋田魁新聞記事より

powered by QHM 6.0.4 haik
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional