今に生きる菅江真澄こと、秋田のとんじい、よもやま徘徊日記 公園と森の散歩、秋田の祭り、行事、踊り

上新城道川神社由来

上新城道川神社の由来

源頼朝の平泉、藤原氏への攻撃、いわゆる奥州合戦に頼朝の家臣として加わった橘公業(たちばなのきみなり)はこの戦で功を立て、恩賞として与えられたのが秋田郡である。

公業は直ちに経営に着手し、まず男鹿に入るが、そこで大河兼任(おおかわのかねとう)の反乱に見舞われた。いったん敗北するも、乱の鎮定後は在地武士団を代官に任命し、自らは頼朝の側近として、鎌倉に居住し、秋田郡の間接経営を行った。

道川神社はこのころ(文冶年間 1185~1189)に建立されたものと伝えられている。鎌倉時代の仏像を伝えている。
その後橘氏は幕府内で権力を失い、鎌倉を離れ、肥前の国(佐賀県)に拠点を構えた。

秋田郡と橘氏の関係は延応元年(1239)が最後となった。
その後秋田郡の支配は在地武士が主導権を握ることとなる。

この時代の今に残る遺物として、”柳田のけやき”がある
 太平地区の入り口に位置する柳田は、橘氏の支配した村である。
この柳田に火産霊神社(ほむすびじんじゃ)があり江戸時代は不動堂として尊崇を集めた。

境内にはけやきの古木があり、樹齢800年を超えるというから、橘氏の時代から生き続けていることになる。

橘氏が支配した村は新城川、太平川、仁別川(旭川)の流域と男鹿などに広がっている。

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大河兼任(おおかわのかねとう)とは

 八郎潟東岸一帯に勢力を持った、秋田郡の在地武士の頭領であり、平泉藤原氏が源頼朝の仕掛けた奥羽合戦により滅亡した後、頼朝の新たな東北支配に反抗し、文冶5年反乱を起こした。
一時は由利郡地頭の由利維平(ゆりこれひら)を討ち、津軽をも勢力下に収めた。その後平泉にて頼朝の派遣した関東武士団と戦い敗れ、敗走中陸奥の国栗原郡花山にて木こりに殺された。
湖東部の鯉川が本拠地と言われる。


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